スチル1

午後の教室に、抑揚のない教師の声が響く。
楽しい夏休みが明けたばかりの子供たちにとって、
算数の授業は退屈で仕方がなかった。


窓際の席で、陰鬱そうに俯きながら
ノートに鉛筆を走らせる少年がいる。

彼の周囲は、授業中であるにも関わらず騒がしい。
手紙を交換する人、お喋りをする人......

騒がしいクラスメイトに苛立つ少年の額に、汗が浮かぶ。
彼は勇気を振り絞り、彼らに言った。
「静かにしろ」と。


しかし、やんちゃなクラスメイトたちは
彼の言葉に耳を貸さない。

それどころか、彼を小馬鹿にするよう、
互いに目を合わせてくすくすと笑った。


少年は唇を噛みしめながら机の下に手を潜り込ませ、
何もない場所で指を動かした。
テレビゲームのコントローラーを握り、
アクションゲームをプレイするかのように。

――イヤなことがあった時、
空想の中でゲームのコントローラーを操作し、
心を落ち着けるのが、彼のクセだ。


最初に思い浮かべるのは、
テレビに表示される、キャラクターのセレクト画面......

数あるキャラクターの中から少年が選ぶのは「レヴァニア」。

「レヴァニア」――勇者の姿をした、
アクションゲームのキャラクターの名前だ。


ゲームで「レヴァニア」を操作し、
ダンジョンへ魔物を倒しに行く時。
その時だけは、強くいられる......勇者のようになれる。

クラスメイトに馬鹿にされたりせずに済むのだ。

少年にとって、
ゲームで「レヴァニア」を操作している時だけが、
心安らぐ時間だった。


帰りの時間を告げる鐘が鳴った。

西陽が射す廊下を、
ランドセルを背負った大勢の子供たちが駆け抜ける。
あたりは、けたたましい子供たちの声で満たされていた。

放課後の予定を語り合い、楽し気に笑う子供たちの中で――
少年はひとりぼっち、重い足取りで廊下を進んでいく。


そして、少年の後ろから走ってきたクラスメイトの男子たちが、
彼を追い抜かそうとした瞬間。

少年のランドセルにぶらさがった、
勇者「レヴァニア」のキーホルダーが、
ひとりのクラスメイトのランドセルに引っかかった。

少年は、強引に走り抜けようとしたクラスメイトに
引っ張られる形で転んでしまう。


少年は、苦々し気に顔を上げた。
ぶつかったクラスメイトは少年を一瞥したが、
あやまる言葉も心配する言葉も口にしない。

彼は笑いながら、他のクラスメイトたちと共に
走り去っていった。


「大丈夫?」

そう少年に声をかけたのは、
少し離れたところで見ていた、クラスメイトの少女。
彼女は少年の元へ、足早に駆け寄ってくる。

しかし少年は少女に目を合わせることもなく、立ち上がった。


彼女は――
成績優秀で、気配りもできる優しい生徒。
先生からの評判も良ければ、
彼女を嫌う生徒を見たこともない。
それに、少年とは正反対の明るい性格をしている。

そんな彼女に心配され、
なおさら惨めな気分にさせられた。

少年は無言のまま、その場を去ろうとする。


しかし――

「あ! 『レヴァニア』だ!」

少女が少年のキーホルダーを見て放った言葉に、
少年は思わず立ち止まる。

少女は少年のランドセルについた
勇者「レヴァニア」のキーホルダーに触れると、
それをキラキラした目で見つめた。


この少女は、自分と同じゲームが好きなのだ......
そう思った少年は、
少女に対する警戒心をふっと解いていた。


「ただいま」

キィと軋む音と共に、錆びたアパートの扉を開ける。

玄関で靴を脱ぎ、自宅に入って行く少年の後を、
少女がついて行く。


「レヴァニア」のキーホルダーを通して、
あっという間に打ち解けたふたり。

「一緒にゲームで遊ぼう」と無邪気に言う少女に
押しに押され、ついにふたりは、
少年の部屋でゲームをして遊ぶことになったのだ。


少年が住むアパートの一室は、静寂に満たされていた。
父は早朝から深夜まで仕事。母は、病で入院している。
今は少年と少女以外、誰もいない。


少年はテレビに繋がれたゲーム機の電源を入れた。
それからゲーム機にコントローラーをふたつ繋ぎ、
ひとつを少女に手渡す。

画面に表示される、キャラクター選択画面。
少年はいつものように、勇者「レヴァニア」を選択する。
そして少女が選択したキャラクターは......


『怪物』だった。
真っ黒な鎧のような体に、醜い虫の羽......
瞳のない、不気味な怪物。

名前のないそのキャラクターは、
見た目のままに「怪物」と呼ばれている。


「......本当に、怪物でいいの?」

少年は、少女が間違えて「怪物」を
選んでしまったのだろうと思い、そう尋ねた。

しかし彼女は迷わず「うん」と答えてSTARTボタンを押す。

「珍しいね。「怪物」を使う人......初めて見た」

「そうかなあ。私、カイブツさんがいちばん好きだよ。
 だって、強いもん」


ふーん、と言いながら少年は少し意外に思った。

彼女も他のプレイヤーと同じように......
勇者や騎士、姫などの人気のあるキャラクターを
選ぶ気がしていたからだ。


埃っぽいアパートの一室に、
緊張感のあるゲーム音楽が響き渡る。
西陽が射し込む部屋は暑い。
少女は、時おり長い袖で額をぬぐっていた。


テレビ画面の中ではふたりがそれぞれ操作する勇者と怪物が、
洞窟のダンジョンを進んでいく。

ダンジョンの中にいる魔物をすべて討伐することが、
ゲームのクリア条件だ。


画面が明滅し、魔物との戦いが始まる。
コントローラーを操作するふたりの手に力が入った。

少年が操作する勇者「レヴァニア」は、
いつものように淡々としたアクションで敵をなぎ倒していく。

その隣で――少女が操作する怪物は地を這うように暴れ、
魔物たちを殲滅していた。


少女の手元で、繰り返し押されるコントローラーのボタン。

そこにはゲームでの冒険や戦略を楽しむ心はなく、
ただ衝動だけがあるようだった。


少年は思わず、コントローラーを操作する手を止めた。
そして視線を動かし、怪物を操作する少女の横顔を
ちらりと覗き見る。

少女は顔色ひとつ変えずに、ただ無心で怪物を操作し、
魔物の虐殺を続けていた。


今テレビに映るのは、いつも少年が楽しむゲームだ。
だが少女の狂気的なゲーム操作は、
少年の目に、いつもと違うものを見せる。


画面を真っ赤に染める血飛沫。
飛び散る魔物の肉片。
テレビのスピーカーから放たれる
不気味に音が割れた怪物の咆哮が、
少年の内臓を揺らした......

それは幻とも現実ともつかない、恐ろしい光景。


窓の外では日が沈み、
空は暗くなり始めている。

少女は帰りの時間を気にすることもなく、
画面の中の怪物に、夢中になっていた。

スチル2

授業が終わり、休み時間を告げる鐘が鳴った。

それと同時――窓際にある少年の席に、
ぞろぞろとクラスメイトたちが集まってくる。


その中で一際背の高い男子が一歩前に出て、
俯く少年の顔を覗き込んだ。
彼は学年でも有名な、横暴な生徒。
いわゆるガキ大将と呼ばれるような存在だ。

そんな彼が生徒たちを引き連れ、少年の元に来たのだ。
少年は緊張し、肩を強ばらせた。


「聞いたぜ。お前......」

ガキ大将の少年は、にっと笑みを浮かべて言う。

「すっげぇ、ゲーム上手いらしいじゃん」

「えっ」

予想外の言葉に、少年は顔を上げる。


「アイツから聞いたぜ。な? そうなんだろ?」

ガキ大将が、廊下側の席に座る少女に手を振りながら言う。
少女は目を細めて「うん」と微笑んだ。


――同じゲームが好きで、意気投合した少年と少女。

ふたりはあれから毎日のように、
少年の家でゲームをして遊んでいた。

そして少女はいつのまにか、少年のゲームの腕前を
クラス中に話して回っていたらしい。


少年からダンジョンの攻略方法を聞いて
感嘆するクラスメイトたち。

こんなふうに、みんなに囲われて話を聞いてもらえるのは、
少年にとってはじめての経験だった。
気恥ずかしいが――まんざらでもない。

少女との出会いによって、
少年の日々は変わり始めていた。


楽しい学校生活の日々は、足早にすぎていく。

少女と初めて話した頃の暑さはいつのまにか消え去り――
気づけば、教室の壁にさげられたカレンダーのイラストは
雪だるまに変わっていた。


いつも通りの、朝礼の時間。
担任の教師が、クラスメイトの名前をひとりずつ呼び
出席を取っている。

少年は寒さに手を擦り合わせながら、
廊下側の、空っぽの席に目をやった。少女の席だ。
成績優秀で休みも少ない彼女が欠席だなんて、めずらしい。

――今日はゲーム、一緒にできないのかな。

少年が寂しさに視線を落とした、その時。


「ねえ、聞いた?」

少年の隣の席に座る女子が、彼に耳打ちした。

「あの子――万引きして捕まっちゃったんだって」

「万引き?」

少年は、思わず聞き返した。
明るくて、優しくて、成績も優秀で......
誰からも好かれる彼女とは、結びつかない言葉だったからだ。


「うん。昨日、お店でパンを盗んだところを
 見つかったんだって。
 それでね、あの子が持ってるゲームとかも全部、
 盗んだものだったんだってさ」

しかし少年はその言葉が信じられず、
ただ呆然と黙り込んでいた。


彼の脳裏に浮かぶのは、
共にゲームをする時の少女の横顔。

凶暴な怪物を操って魔物を虐殺する、
あの静かな横顔だった。


家に帰り、ゲーム機の電源を入れる。
ひとりでゲームをするのは久しぶりだ。
仕事の忙しい父親や、入院中の母親......
家でひとりぼっちの少年の孤独を癒してくれるのは、
少女の存在だった。


けれど今日、彼女はいない。
少年は心細い面持ちで、テレビの画面を見つめた。

表示される、キャラクターセレクト画面。
そこでいつものように、
勇者のキャラクター
――「レヴァニア」を選択する。


少年はひとりでゲームを続け――
そして日が暮れた頃。
玄関の、チャイムが鳴った。

ドアの覗き穴から、外を見る。
そこにあったのは、少女の姿だ。

いつもより少し顔色の悪い彼女は、
覗き穴ごしに、微笑んでいた。


少年は何も言わずに少女を部屋に招くと、
いつも通りにゲームを始めた。

勇者と怪物......ふたりはそれぞれのキャラクターを操作して、
ダンジョンの中の魔物を討伐していく。


ふたりの間に、気まずい沈黙が流れている。
しかし少年は思い切ったように息を吸うと、
少女に尋ねた。


「......あの噂のこと、本当なの?」

学校で聞いた噂。
パンを盗んだこと。
そして――持っているゲームも、
盗んだものだったということ......

それは、本当なのか。
少年は言葉を濁しながら、尋ねた。


「うん」

少女はか細い声で、噂を肯定した。

「だって......ママ、買ってくれないんだもん」

テレビ画面の中では、戦闘が始まっていた。
少女がコントローラーのボタンを押す指が速くなる。


ぐちゃり、ぐちゃり。
少女の操る怪物が、魔物を殺戮する音が響く。
残酷に引き裂かれた魔物の肉体が、テレビ画面を赤く染めた。


暗い部屋の中。赤く明滅する液晶が、少女の顔を照らす。
敵を虐殺しながら、笑みを浮かべるその顔を。

そして――袖の隙間から見える、痣だらけの腕を。


ずっと、おかしいとは思っていた。
夏の暑い日でも、体育の授業でも、
彼女が長袖を着ていることを。

きっと彼女は何かを隠しているのだろう......
そう、頭のどこかでは分かっていたが、
何か恐ろしい予感がして、考えないようにしていた。
時おり袖の隙間に覗く肌から、目を背け続けてきた。


けれどもう、向き合わざるを得ない。
彼女がその痣を隠すために長袖を着ていた理由。
そして、その痣が誰につけられたものなのか......


少女は笑った。怪物の爪が、牙が、敵を痛めつけるたびに。

やがて画面の中央に表示される
『MISSION COMPLETE!』の文字。

少女は達成感に満ちた息を吐いて、
うっとりと画面を見つめた。


「......いいよね、カイブツさんは」

掠れた声で呟く彼女の顔から、
次第に笑顔が失われていく。


「私も......こんな風に強くなって、全部壊したいな」

少女は世界中すべてを呪うような瞳で、
画面を睨みつけていた。

スチル3

窓際の席に座る少年のもとには、
今日もクラスメイトたちが集まっている。
彼らは少年からゲームの攻略方法を聞いては、
楽しそうに騒ぎ立てた。

少年は彼らと話しながら、廊下側の席にちらりと目をやる。
そこには、ひとりぼっちで俯いて座る、少女の姿があった。


――かつて、家にも学校にも居場所がなかった少年。
しかし少女との出会いによって、彼の日々は大きく変わった。

少年の部屋で、ふたり一緒にゲームをする毎日。
そして少年のゲームの腕を知った少女は、
クラスメイトたちに彼の凄さを話して回った。

おかげで、以前はクラスののけ者だった少年は、
いつのまにか人気者とも呼べる存在に、変わっていた。


一方で少女は......
少年と入れ替わるよう、居場所を失った。

一週間前、パンを盗んだことで発覚した、彼女の窃盗の数々。

少女はあれからも学校には来ているが――
彼女に向けられる視線は、冷たいものへと変わり果てていた。
先週まで優等生ともてはやされていた面影はもう、
どこにもないほどに。


それでも、学校が終われば少女は少年の部屋へとやってきて、
ふたり一緒にゲームをする。

少女が笑顔で操るのは、恐ろしい怪物のキャラクター。

彼女はまるで日々の鬱憤を晴らすかのよう、
ゲームの中で、すべてを破壊するのだ。
......袖の隙間から、その痣だらけの腕を覗かせながら。

そして少年の父親が仕事から帰ってくる時間になると、
少女は浮かない顔で自分の家へと帰っていく......


少年は少女が去った後の部屋で、
ひとり立ち尽くしながら思う。

少女は言っていた――
彼女の母親は、彼女にパンすら買ってくれないと。

それに、いつも袖の隙間から見えるあの傷......
きっと彼女は、どうしようもない環境に
身を置かれている。


――私も......こんな風に強くなって、全部壊したいな。

少年は、彼女の言葉を思い出す。
すべてを破壊する、ゲームの中の怪物......
少女はそんな怪物になりたいと、願っていた。


少女を助けたい、と少年は思う。

今の自分に居場所があるのは、
彼女が友達になってくれたから。

ならば今度は自分が、少女のために......


いてもたってもいられなかった。
少年は父親が眠るのを見計らうと、
ひとり、夜の街へと飛び出した。


見渡す限り、ゴミの山。
青白い蛍光灯が、足の踏み場もない程に
散らかったアパートの一室を照らしている。

少女はそんな部屋の床に座り込み、
壁にもたれかかって宿題のノートに鉛筆を走らせていた。

その傍らで気だるげに酒を飲む女――
それが、少女の母親だった。


部屋に、アルコールの匂いが充満する。
少女は思わず小さくせき込んだ。
そんな少女を、女は「うるさい」と言わんばかりに
睨みつける。

殴られる......少女は、そう直感した。
彼女は体を震わせながら、身をかばう格好をとる。


その時、玄関のチャイムが鳴った。
女は小さく舌打ちをして、玄関を睨みつける。
こんな深夜に一体、誰が......と。

女はチャイムの音を無視しようとした。
しかし、チャイムは何度も鳴らされる。
何度も、何度も、何度も。

やがて、耐えかねた女はドアを開けた。


そこにあったのは――少年の姿だ。

こんな夜遅くに、どうして子供が。
女はそう思い呆れたように目を細めた。
しかし彼女は、すぐに顔色を変える。
少年が、右手に鉄パイプを持っているのを見たからだ。


相手は、まだ声も変わっていないであろう子供だ。
それでも、鉄パイプで大人を殴ったら
殺せるほどの力はあるかもしれない。
女は青ざめた顔で、後退った。


少年は振り上げた鉄パイプで女を威嚇しながら、
床中に散らばったゴミを踏みつけ、
部屋の奥へと踏み込んでいく。

そして、呆気にとられた顔で座り込んでいる少女を
見つけると、彼女の元へと駆け寄った。


「一緒に行こう」

少年は、興奮で上ずる声で言いながら、
彼女に手を差し伸べた。

「ふたりで怪物みたいになって。全部、壊すんだ」

少女はしばらく驚いた顔で少年を見上げていたが――
やがて。小さく微笑みながら、頷いた。


ふたりは笑いながら、夜の街を駆けていく。

そして、気に入らないものに鉄パイプを叩きつけた。

少女のママがイジワルな人を乗せてくる車を。
パンを盗んだ少女を罵倒したお店の看板を。
少女に助けが必要なことすら気づかない、
無能な教師たちが支配する学校の窓を。


憎いものを壊して、壊して、壊して、
飛び散った破片を見て笑って――

けれど、それでも壊し足りなくて。

衝動のまま、目に入るものすべてに
鉄パイプを振るって回った。


それから少年は、道端に停められた誰かの自転車に跨った。
そして、後ろの席に少女を乗せて走っていく。

吹きつける冷たい夜の風が、
熱くなった肌には気持ちよくて、
ふたりは叫び声をあげて喜んだ。


少年がしばらくペダルをこぎ続けると――
やがて、知らない道が見えてくる。
ずいぶん、遠くまで来たようだ。

「そろそろ、海が見えてくるかも!」

少年がそう言った時――
突如、サイレンの音が聞こえた。


角から曲がってきた車に取り付けられた、赤いサイレン。
それが放つ光が、夜道を走るふたりの姿を照らす。
はっと、少年の顔が青ざめた。
この車が自分たちを捕まえるために現れたことは、
分かっていた。


逃げなければ――
連れ戻されたらまた、
少女は大人たちに苦しめられてしまう。

少年はペダルをこぐ脚に、力を込めた。
だが、子供ふたりが運転する自転車が、
自動車から逃れられるわけもない。


少年が少女を乗せて走る自転車は、
サイレンを鳴らす車に追われ――
あっという間に道の奥へと追い詰められていた。

もう。ふたりに、逃げ場はなかった。

スチル4

父は早朝から深夜まで仕事、母親は病で入院中。
家では孤独で、学校に行けばクラスメイトに揶揄われる......

そんな彼の鬱屈とした日々を変えたのは、
少女との出会いだった。
同じゲームを趣味に持つふたりは、すぐに意気投合。
毎日のように、共にゲームをして遊ぶようになった。

成績優秀で、性格も明るく、誰からも好かれる少女――


しかしある時、
少女の窃盗行為が明らかになったことをきっかけに、
少年は彼女が抱える事情を知ることになる。

少女は、食べ物を盗まなければ生きていけないほどに、
母親に虐げられていたのだ。

彼女を助けたい――
そう思った少年は、少女を連れて逃げ出した。
気に入らないものすべてに、鉄パイプを叩きつけながら。


ずいぶん、遠くまで逃げた気がした。
遠足じゃなければ行けないほど遠い海だって、
もう近くに迫っていると思っていた。

けれど追いかけてきた大人たちに捕まり、
車に乗せられて分かった。

自分たちは、そう遠くには逃げられていなかったのだと。
走り出した車は、あっというまにいつもの街へと戻っていた。


捕まった少年と少女は、大人たちから問い詰められた。

こんな時間に、子供ふたりで遊んでいたこと。
いろんなものを壊したこと......その理由を。

少女の事情を知った大人たちは同情の色を見せたが、
だからと言って、優しくはしてくれない。
彼らは「もうこんなことはしないように」と、
ふたりに伝えた。



事件を知った学校の先生も、少年の父親も、
みんな、少年のことを叱った。

いろんなものを、壊して回ったのだ。
叱られるのは当然のことだろう。
それでも少年は、悔しくてたまらなかった。

――誰ひとり、自分と少女のことを分かってくれないのだと。


それから――
少年と少女は、学校こそ通っていたものの
言葉すら交わさない日々が続いた。

ふたりが起こした事件は学校中に知れ渡り、
少年はクラスメイトたちから距離を置かれるようになった。

かつて送った、居場所のない日々。
それが、再び舞い戻ってきたようだった。


日々は過ぎ、冬休みの前日がやってくる。

午後の授業が終わり、終礼の時間が始まった。
その時、担任の教師が少女を前へと呼び出す。

黒板の前に立ち、視線を落とす少女の姿......
少年は、何か恐ろしい予感を抱いていた。
緊張に、鼓動が速まる。


そして告げられたのは――
少女の、転校が決まったこと。

その瞬間。少年の中から、すべての音が遠ざかっていった。

終礼を告げる鐘の音も。
みんながさよならの挨拶をする声も。

全部、どこか遠くから聞こえるようだった。


先生も、生徒も、みんなが教室から出て行っても、
少年は、席から立ち上がることができずにいた。
そしてそれは――少女も同じだった。

窓際の席に座る少年と、廊下側の席に座る少女。
寒い教室に、ふたりきり。
あたりが暗くなっていく中、ただ無言で過ごしていた。


「ごめんね」

沈黙を破ったのは、少女の方だった。
彼女は少年から離れた廊下側の席に座ったまま、
ぽつりぽつりと話し出す。


少女が転校する理由。
それは事件をきっかけに、
少女が母親から虐げられていると知った親戚が、
少女を引き取ることに決めたからだという。
ここから遠い街で、
少女は母親から離れて暮らすことになったのだ。


少年は何か空虚なものが込み上げてくるのを
抑えながら言った。

「よかったね」と。

だって、これで少女はもう苦しまずに済むのだ。
物を盗んだりしなくていいし、母親に痛めつけられずに済む。


けれど少女は――

「本当は......一緒に逃げたかったよ」

そう、呟いた。


引っ越したくなんかない。
引っ越せば、一緒にゲームができなくなってしまうから。

心の内では、少年も彼女と同じ気持ちだった。
でも、どうしようもないことだって分かっている。

自分たちはまだ子供で――
自ら好きな場所に行く力なんて、
どこにもないのだから。


――寒くて暗い、アパートの一室。
テレビ画面の灯りが、冷たい床に、
ひとりぼっちの影を落としている。

少年はひとりで、ゲームのコントローラーを握りしめていた。


画面に映るのは――少年が操作する、怪物。
かつて勇者を操作していた少年はこの頃、
怪物を選ぶようになっていた。

こんな風に強くなって、全部壊したい......
そう、少女が憧れた怪物を。


テレビから、怪物が敵を虐殺する音が響き渡る。

その音色が、少年の中を心地よく満たしていく。

そして少年は目を閉じ、夢想した。


――今。
少年は、夜の大通りに立っている。
けれどその肉体は人間のそれではなく、
怪物そのものになっていて。
彼は、すべてを破壊する力を持っている。


少年は――怪物は、叫ぶ。
その声は激しく地を揺らし、
あらゆるものを粉々に砕いた。


学校も。少年が住むアパートも。
公園のフェンスも。自動車も。
交通標識も。遠くのビルも。
目に見えるもの、全部、全部。
怪物の叫びが、壊していく。

ひとつ、またひとつと街の灯りは消え、
夜空に血飛沫が舞い上がる。


怪物は叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。
瓦礫は舞い上がり、嵐が巻き起こる。
あふれ出した川の水が、街を飲み込んだ。

思うまま、せいいっぱい壊してやるのだ。
自分と少女......それ以外の、世界中すべてを。


やがて、怪物の叫びはすべてを破壊し、
この星は無に還される。

怪物は、飛び上がった。
その醜い羽を羽ばたかせ、
荒れ果てた大地の上を、どこまでも飛んでいく。


そして星空に照らされる荒野の真ん中で。
怪物は、求めていた友の姿を見つける。

――笑顔で怪物を待つ、少女の姿を......


そんな光景を、少年は夢見た。

そして暗い部屋でひとり、願う。

もしもいつか生まれ変わることがあるのなら、
あの怪物のように、強い生き物になりたい。

大切な友達を救う力を持った、強い生き物に。